コラム

2023-02-05 00:00:00

ソロモン諸島の公共交通機関

4FC63A00-B78D-4FF0-9848-436CAF45DE2D.jpeg     DFE044FD-8AFC-42A0-BA26-F5256721FEF1.jpeg     

53CAA787-4689-4125-9E02-44F1051351CC.jpeg

今年最初の出張でソロモン諸島の首都ホニアラに来ています。当地では幸いカウンターパートである政府機関から徒歩10分程度のホテルに宿泊しているため、ドライバーは雇わず、公共交通機関を使うことも殆どありません。たまに使うタクシーは、市内なら1,000円以下でどこでも行けるぐらいの感じです。

地元の皆さんの通勤手段はというと、写真のような小型の乗り合いバスが中心。これは州政府とホニアラ市の管轄下で営業許可を得た民間事業者が運営するもので、運行スケジュールは収益性の観点から各事業者が自由に決められるようになっているそうです。ちなみに料金は距離に関わらず定額とのこと。

車両はトヨタのハイエースが大半ですが、中には日本の幼稚園や旅館などから払い下げたマイクロバスが、車体にかつてのロゴを残したまま走っているようなケースも。ホニアラ市の人口は10万人近いので、大型の路線バスでもよさそうに思いますが、恐らく輸入に依存する燃料のコストや車両の初期投資をセーブする観点から、こういう形になっているのではないかと思います。

コロナ禍が終息に向かいつつあるとはいえ、冷房の効いてなさそうな車両にギューギュー詰めになるぐらいなら徒歩かタクシーを選んでしまいますが、特に遠くから職場に通うような当地の皆さんにとっては、重要な移動手段なんでしょうね... (浦出)

2022-11-21 00:00:00

ティンガ・ティンガのアート・ビレッジ

306470848_10225943943558942_1686819979103892734_n.jpg     306598814_10225943949079080_7598694938420620779_n.jpg     

スクリーンショット 2022-11-21 17.43.52.jpg

再び出張でタンザニアのダルエスサラームに滞在していますが、ここ最近の週末の楽しみは、市内にあるティンガ・ティンガにタンザニアン・アートを物色しに行くこと。ここはダルエスサラームで活動中のアーティストの皆さんの工房兼ギャラリーが集積したアート・ビレッジで、人気の観光スポットでもあります。

今年8〜10月にかけての前回滞在中に初めて訪れたのですが、値段も手頃なので、3週連続で通い詰めて気に入った作品を6点ほど購入しました。帰国後に弊社本社に飾ったところ、思いのほか反響が大きく、友人知人からは「次に行く時はコレと同じようなのを買ってきて欲しい」なんて依頼までされたほど。

「アフリカン・アート」というと、素朴でワイルドな土着の作風がイメージされがちで、もちろんそういうものもありますが、ティンガ・ティンガでとりわけ目を引くのは、写真(3枚目)のようなモダンでシックなデザインの作品。恐らくは観光客が好みそうなものが描かれるようになってきているんでしょうけれど、かなりオシャレなテイストで、ご覧になられた皆さんはだいたい驚かれます。

あと有難いのは、デザインがある程度定番化されているからだと思いますが、「これと同じ図柄のもの」と展示されているものを指し示して希望のサイズを伝えれば、3日間ほどで描いてくれること。私も持ち帰った6枚のうち2枚は注文して描いてもらいました。短期の旅行者にはなかなか難しいかも知れませんが、例えばダルエスサラーム入りしたらすぐに注文して、ひとしきり国内観光をした後にピックアップして帰国する、なんてやり方であれば希望通りの作品が持ち帰れそうですね。(浦出)

2022-10-26 10:00:00

バーナンキのノーベル賞受賞から考える、中央銀行実務と経済学の関係

前回、バーナンキのノーベル経済学賞受賞は、彼のFRB議長としての実務的な実績に負う部分も大きく、そしてそれは十分に妥当性があるのだ、と述べた。だがその一方で、これはちょっとマニアックながらおもしろいポイントを示唆していると思うので、今回はちょっとその話を。

そのポイントとは、経済学と中央銀行の関係、というものだ。

ありがちな誤解として、経済学はお金についての学問だ、というものがある。が、実際問題として、経済学は必ずしもお金の扱いがうまくない。というのも経済学の主流では、お金そのものは表に出てこないからだ。リンゴが百円だ、といったらそれはそれでおしまい。なぜ百円かといえば、市場でそうなっているからだ。お金は透明な媒介物でしかない。人々がお金自体にとらわれてしまうと、経済学的にはそれはマネーイリュージョンだ。「市場」というのも、抽象化された場とも行為ともつなかない存在となる。いつどこでも、お金とリンゴは双方向に交換できる、ということだ。でもなぜ交換できるの? だれがそれを、何のために交換してくれるの?

金融系の話では、市場のお金の総量をあらわすのに、M1とかM2といったものが出てくる。M1は現金と銀行の当座預金だ。この概念では、現金と銀行預金は等価だ。銀行にある100円と、現金の百円はまったく同じだ。でも、金融危機というのはしばしば、取り付け騒ぎにより生じる。つまり人々が、銀行の預金と現金とが同じものだと思わなくなる。M1がもはや成り立たなくなるのが金融危機だ。なぜそうなる? ここらへん特に、経済学が大好きな合理性の想定のもとでは、なかなか見えてこないのだ。

一方、中央銀行の実務は必ずしも経済学の本流と一致しているわけではない。中央銀行にはその運営について独自の理論と実務体系がある。それはまさに、そのお金との関わりをめぐる話だ。M1が成立するのは、現金と銀行の当座預金を、常に等価なものとして交換する市場を銀行が提供しているからだ。そして銀行は別に、慈善でそんなことをしているのではない。彼らがその市場を提供するのは利潤を求めてのことだ。そしてM2やM3といったもっと広いお金の概念だとなおさらそれが重要になる。中央銀行はそうした市場の確保という、お金の裏の仕組みを提供する。そして市場は取引が必要だけれど、取引はある程度の不合理性を必要とする。その必須の不合理性は、経済学が好む合理性とは必ずしも相性がよくなかったりする。

おかげで中央銀行の実務は必ずしも経済学の保守本流の理論通りには動かない。むしろ面従腹背、というのが実情に近い。ここらへんは拙訳のメーリング『21世紀のロンバード街』に詳しい。経済学者が特にアメリカの中央銀行 (FRB) 実務にいろいろ注文をつけるのを、FRBはのらりくらりとかわし、ときには自分の狙いを実現するための隠れ蓑に利用したりした。たぶんその最たるものは、1970年代にヴォルカー議長がミルトン・フリードマンのマネタリズムに帰依したふりをして、きわめて硬直的な金融政策を採用して、アメリカ経済を不景気にたたき込みつつインフレ退治をしたときだろう。経済学は、完全に中央銀行のボケ役に使われてしまったわけだ。

さてこの観点から考えると、今回の、特にバーナンキの受賞はなかなかおもしろい。彼の受賞に対する「中央銀行が中央銀行の運営について、中央銀行家にあげた賞」という揶揄を前回紹介した。これは悪口のつもりで言われている。だが中央銀行と経済学との同床異夢の関係を考えると、逆にほめことばにさえなる。というのも、中央銀行の運営において、経済学の発想がストレートに適用できて、それが効果を挙げたという、いわば中央銀行理論/実務と経済学理論とをついに融合させたことが評価されたのだ、という見方ができるからだ。

 

バーナンキ率いるFRBがリーマンショック/金融危機で見せた対応は、バーナンキ流の経済学理論と、中央銀行的なお金の見方と実務が見事に一致した例だといえる。銀行を救え。銀行が作っている市場を救え。そして今回の金融危機では、その市場を作っていたのは普通の銀行ではなく、シャドーバンクだった。では彼らが作っている市場を救え——そのために不動産担保ローン証券の市場をすべて中央銀行のバランスシートに引き受けることになっても!

バーナンキ受賞は、特にアメリカの特定政権に基づく政治色がついてしまう、という声もあった。ノーベル経済学賞はときどき、そういうときには対立流派の人を同時受賞させてバランスを取る。たとえば証券市場の完全合理性を主張するユージン・ファマと、根拠なき熱狂によるバブルを懸念するロバート・シラーの同時受賞などだ。筆者も金融的な話では、そうしたバランスを考慮して、有名なテイラールールを導出し、比較的ルールに基づいた硬直的な金融政策を主張したがるジョン・テイラーの同時受賞となるのでは、と思っていた。でも、彼が落選した——いやもちろん今後の受賞もあり得るので後回しになっただけかもしれないが——のは、そういう中央銀行的な発想との整合性、ひいては実務的な有効性についての評価といったあたりがポイントになったのではないだろうか。その意味で、今回のバーナンキ受賞は、一部の人が揶揄するほどポピュリズムに堕したものではなく、むしろ経済学理論についての中央銀行的な評価という面で、画期的なものだったのでは、と筆者は勝手に思っているのだが、どんなものだろうか。(山形)

2022-10-19 16:00:00

2022年ノーベル経済学賞をめぐる毀誉褒貶

2022年ノーベル経済学賞受賞者が10月10日に発表され、ダイアモンド、ディビッグ、バーナンキの三人が受賞したことはすでに旧聞に属する。その受賞理由は、銀行が持つ本質的な不安定性についての理論と、銀行破綻が恐慌のような形で実体経済に影響する方法の解明だ。

さて、ノーベル経済学賞は毎年発表されるたびに「なんであいつなんだ」、「あいつにやるならこいつにもやるべきだ」、「こいつを先にすべきだった」といったグチが飛び交う。だが個人的な印象として、2022年は特に呪詛や罵倒が多かったように思う。そしてそのほとんどは、ベン・バーナンキに対する呪詛だった。

バーナンキの理論は、銀行部門の破綻が実体経済になぜ波及するかをめぐるものだ。それは銀行融資の縮小と資産価格下落の悪循環を通じて起こる。その理論家としての実績もさることながら、彼はアメリカのFRB議長として、自分の理論の持つ含意をリーマンショック/世界金融危機への対応で活かし、まがりなりにも世界経済を崩壊から救った。同時に、デフレに陥りかけたアメリカ経済に対して2%のインフレ目標を設定して、積極的な金融緩和レジームを確立することでアメリカ経済の復活の後押しに成功した。

自慢ではあるが、著者はこうした理論と実践の双方でもバーナンキの実績を評価してきた。それ故にバーナンキがノーベル賞を取りそうだと、自分のブログで2017年から主張してきた。それは著者の個人ブログを参照してほしい。半ばお遊びとはいえ、その予想が見事に当たってくれたというのは、何とも鼻の高いことではある。

だがその一方で、彼のノーベル賞への批判は、彼がまさにこの実務の現場にあまりに近かった点からもきていたように思う。

気の利いた悪口としては、これは中央銀行が中央銀行の運営について、中央銀行家にあげた賞だ、というものを見かけた。ご存じの通り、ノーベル経済学賞の選定はスウェーデン中央銀行が行っている。今回のバーナンキ受賞など、中央銀行の身内のお手盛りでしかないのでケシカランというわけだ。そしてもちろん実務には政治色もつきまとうので、そのために敬遠されるという見方も耳にした。

そしてもちろん、政策そのものに対する批判者も多い。そもそも危機の元凶たる銀行を救済すること自体許せない、ダメな銀行はつぶすべし、バブル企業は倒産させろ、膿を出し切る創造的破壊こそが経済再生の近道、それをしなかったバーナンキは金融業界の走狗で、経済を救うどころか問題を延命させた極悪人、そんな人物にノーベル賞とは片腹痛い、といった呪詛が、今回の受賞報道とともに一気に噴出した。またアベノミクスや黒田日銀に批判的だった日本の経済論壇やマスコミのかなり大きな一部は、その理論的基盤でもあり強い支持者でもあったバーナンキの受賞について、よくても控えめで歯切れの悪い物言いが多かったように思う。そうした批判にかこつけて、バーナンキの理論にまで非現実的だとケチをつけ、行きがけの駄賃で他の二人、ダイアモンド=ディビッグすらけなす(まともな論文が一本しかない云々)コメントまで散見されたのは残念ではある。

だが、個人的にはこうした批判(というより難癖)は不当だと考えている。最終的に、経済学は現実の経済を扱うものだし、現実の経済についての理解を深めるためのものだ。バーナンキの理論的な知見が、経済運営の実務に影響し、それが曲がりなりにも有効であったなら、それは理論と実証が一致したということで学問的によいことだ。実務に携わったから評価しない、というのは、筋違いだろう。

金融危機でのFRBの対応が正しかったのか、という点は、もう決着がついているとは思う。ケチをつける余地はあるのだろう。別のやり方があったのかもしれない。だが基本的な方向としては理論通り。各種の「非伝統的」なやり方を通じ、中央銀行がバランスシート上に様々な資産を引き受けることで、資産価格はある程度維持され、バーナンキの理論が警告する資産価格下落と融資引き締めの悪循環は回避された。そして銀行を救済することでダイアモンド=ディビッグの理論が警告するような銀行の不安定性も抑えられた。そしてそれにより、世界経済が崩壊の危機から救われたし、批判者たちの懸念——ハイパーインフレなど——はどこにも出てきていない。それを考えると、著者は今回の受賞が実に妥当なものだと思うのだが、いかがだろうか。

そしてついでに、彼が高く評価してきたアベノミクスや黒田日銀の量的緩和についても、その意義を改めて評価すべきではないだろうか。もちろんこの著者は、日本のリフレ派と呼ばれる一味の太鼓持ちではあり、この点について必ずしも客観的な立場ではない。が、多少は権威も見識もあるとされるノーベル賞受賞を期に、バーナンキが何を評価しているのかについて、改めて見直すことは決して無駄ではないと思うのだが。(山形)

2022-10-01 00:00:00

タンザニアSNS事情

スクリーンショット 2022-05-02 20.00.19.jpg
JNEW最初の出張でタンザニアに来ているのはお伝えした通りですが、当地では政府系農業開発銀行のアドバイザーとして、出張ベースで信用分析や案件組成の能力強化、体制整備等のお手伝いをしております。

今回のように海外で新しい相手と長期の仕事をする際、互いの距離を縮めるのに便利なのがSNS。とりわけFacebookはこれまで仕事をしたどの国でも利用率は日本より高かったし、日本みたいに「私は仕事とプライベートは分けてますから」なんて言う人もまずいないので、私の場合、半ばマーケティングツールとして非常に重宝してきました。

というわけで此度のタンザニアでも、カウンターパート機関との腹を割った議論を通じで仲良くなったスタッフの何人かに聞いてみたのですが、Facebookユーザーが意外に少ないことが判明。出張を終えてしばらく会わないような場合、顔を忘れないようにリンクしておこうと思っていたのに、これは一体どうしたことかと思って辿り着いたのが画像のデータです。(出所:https://gs.statcounter.com)

これは国・地域別でみた各SNSのシェアを表したもので、左側上から下にタンザニア、アフリカ全体、(特にFB利用率が高い印象だった)ミャンマー、右側は全世界、米国、日本の順に並んでいます。これを見るとツイッターが多い日本以外では未だFacebookのシェアが非常に高いことがわかりますが、そんな中でもタンザニアでは各SNSのシェアがわりと拮抗していますね。カウンターパート機関で聞いた話でも、「最近はインスタユーザーのほうが多い」とのこと。

理由をいろいろ想像してみたのですが、考えられるのは以下のようなもの。

  1. 言語の問題:タンザニアはスワヒリ語以外に英語も公用語で、日本人よりは英語が上手ではあるものの、隣国ケニアに対しては英語力のコンプレックスを抱えているような印象。そんな中、言葉より画像をメインに投稿できるインスタが選好されている可能性はあるような気もします。
  2. 政治的発言のリスク:政治的にセンシティブな発言や投稿が忌避されるといった傾向も、ひょっとしたら画像での投稿がより好まれるという流れに影響しているのかも知れません。
  3. スマホが普及した時期の違い:スマホの普及が本格的に進んだ時期にプレゼンスが高かったSNSのほうがより広く使われている可能性もあります。ミャンマーでは今や2.も無視できない状況になってしまっていますが、それ以前はFacebookのほうがより一般的だったことは、この点を裏付けるものかと思います。

というわけで、私自身がインスタをやっていないこともあり、当地でFacebookアカウントを持っていない皆さんとのリンクには、主にLinkedInを使うことにしています。まああんまり人となりがわかるような情報がアップされないのは味気ないのですが、仕方ないですね。

余談ながら上記データで気になったのが、成熟市場の中でも異常に高い日本でのツイッターのシェア。特に日本の場合、匿名アカウントが他国に比べて圧倒的に多いらしいですが、名前を伏せて好き勝手なことを吐き捨てる社会の暗部が炙り出されている感じがするのは私だけでしょうか…。(浦出)
1 2 3
Today's Schedule