コラム

2022-10-26 10:00:00

バーナンキのノーベル賞受賞から考える、中央銀行実務と経済学の関係

前回、バーナンキのノーベル経済学賞受賞は、彼のFRB議長としての実務的な実績に負う部分も大きく、そしてそれは十分に妥当性があるのだ、と述べた。だがその一方で、これはちょっとマニアックながらおもしろいポイントを示唆していると思うので、今回はちょっとその話を。

そのポイントとは、経済学と中央銀行の関係、というものだ。

ありがちな誤解として、経済学はお金についての学問だ、というものがある。が、実際問題として、経済学は必ずしもお金の扱いがうまくない。というのも経済学の主流では、お金そのものは表に出てこないからだ。リンゴが百円だ、といったらそれはそれでおしまい。なぜ百円かといえば、市場でそうなっているからだ。お金は透明な媒介物でしかない。人々がお金自体にとらわれてしまうと、経済学的にはそれはマネーイリュージョンだ。「市場」というのも、抽象化された場とも行為ともつなかない存在となる。いつどこでも、お金とリンゴは双方向に交換できる、ということだ。でもなぜ交換できるの? だれがそれを、何のために交換してくれるの?

金融系の話では、市場のお金の総量をあらわすのに、M1とかM2といったものが出てくる。M1は現金と銀行の当座預金だ。この概念では、現金と銀行預金は等価だ。銀行にある100円と、現金の百円はまったく同じだ。でも、金融危機というのはしばしば、取り付け騒ぎにより生じる。つまり人々が、銀行の預金と現金とが同じものだと思わなくなる。M1がもはや成り立たなくなるのが金融危機だ。なぜそうなる? ここらへん特に、経済学が大好きな合理性の想定のもとでは、なかなか見えてこないのだ。

一方、中央銀行の実務は必ずしも経済学の本流と一致しているわけではない。中央銀行にはその運営について独自の理論と実務体系がある。それはまさに、そのお金との関わりをめぐる話だ。M1が成立するのは、現金と銀行の当座預金を、常に等価なものとして交換する市場を銀行が提供しているからだ。そして銀行は別に、慈善でそんなことをしているのではない。彼らがその市場を提供するのは利潤を求めてのことだ。そしてM2やM3といったもっと広いお金の概念だとなおさらそれが重要になる。中央銀行はそうした市場の確保という、お金の裏の仕組みを提供する。そして市場は取引が必要だけれど、取引はある程度の不合理性を必要とする。その必須の不合理性は、経済学が好む合理性とは必ずしも相性がよくなかったりする。

おかげで中央銀行の実務は必ずしも経済学の保守本流の理論通りには動かない。むしろ面従腹背、というのが実情に近い。ここらへんは拙訳のメーリング『21世紀のロンバード街』に詳しい。経済学者が特にアメリカの中央銀行 (FRB) 実務にいろいろ注文をつけるのを、FRBはのらりくらりとかわし、ときには自分の狙いを実現するための隠れ蓑に利用したりした。たぶんその最たるものは、1970年代にヴォルカー議長がミルトン・フリードマンのマネタリズムに帰依したふりをして、きわめて硬直的な金融政策を採用して、アメリカ経済を不景気にたたき込みつつインフレ退治をしたときだろう。経済学は、完全に中央銀行のボケ役に使われてしまったわけだ。

さてこの観点から考えると、今回の、特にバーナンキの受賞はなかなかおもしろい。彼の受賞に対する「中央銀行が中央銀行の運営について、中央銀行家にあげた賞」という揶揄を前回紹介した。これは悪口のつもりで言われている。だが中央銀行と経済学との同床異夢の関係を考えると、逆にほめことばにさえなる。というのも、中央銀行の運営において、経済学の発想がストレートに適用できて、それが効果を挙げたという、いわば中央銀行理論/実務と経済学理論とをついに融合させたことが評価されたのだ、という見方ができるからだ。

 

バーナンキ率いるFRBがリーマンショック/金融危機で見せた対応は、バーナンキ流の経済学理論と、中央銀行的なお金の見方と実務が見事に一致した例だといえる。銀行を救え。銀行が作っている市場を救え。そして今回の金融危機では、その市場を作っていたのは普通の銀行ではなく、シャドーバンクだった。では彼らが作っている市場を救え——そのために不動産担保ローン証券の市場をすべて中央銀行のバランスシートに引き受けることになっても!

バーナンキ受賞は、特にアメリカの特定政権に基づく政治色がついてしまう、という声もあった。ノーベル経済学賞はときどき、そういうときには対立流派の人を同時受賞させてバランスを取る。たとえば証券市場の完全合理性を主張するユージン・ファマと、根拠なき熱狂によるバブルを懸念するロバート・シラーの同時受賞などだ。筆者も金融的な話では、そうしたバランスを考慮して、有名なテイラールールを導出し、比較的ルールに基づいた硬直的な金融政策を主張したがるジョン・テイラーの同時受賞となるのでは、と思っていた。でも、彼が落選した——いやもちろん今後の受賞もあり得るので後回しになっただけかもしれないが——のは、そういう中央銀行的な発想との整合性、ひいては実務的な有効性についての評価といったあたりがポイントになったのではないだろうか。その意味で、今回のバーナンキ受賞は、一部の人が揶揄するほどポピュリズムに堕したものではなく、むしろ経済学理論についての中央銀行的な評価という面で、画期的なものだったのでは、と筆者は勝手に思っているのだが、どんなものだろうか。(山形)

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